2022年3月27日日曜日

戦国時代のキッチンガーデン

 16世紀後半の戦国時代の農業を記した「日本最古の農書」とされる清良記(親民鑑月集)(実際には江戸時代に入ってから書かれたらしいですが)には、野菜畑すなわち家庭菜園(キッチンガーデン)の記述もあります。

「残りの5畝(約500平米)は野菜を作るので15人分*と見積もる。家の前にあり、女や子どもが手入れを手伝ったり男も朝夕の暇なおりにちょっと見回ったりすることができるので、それほどの労働力はいらない。そのために労働力を少なく見積もっている。先に述べたいろいろな作物(麦や大豆、小豆やささげなど)を少しずつ作る一反(約1000平米)の畑とこの野菜畑とは、いつも中耕除草をし、傷んだ作物を回復させ、虫食いや風などで欠株が生じたところへは補植をし、それぞれの適期を考えて、種子をとったり播いたりして管理する。また、雨が降りつづくときは排水をし、旱ばつのときには灌水して水を吸収させ涼しくしてやる。生育に応じて葉を摘み採り、熟した実を順々にとり入れてむだにならないように収穫する。さらに、鳥獣に食われないように工夫し、泥棒などに盗まれないように気をつける。このように間をおかずに管理するので、本当は労働力も余計に必要なのである。念入りに手入れをすれば、根、葉、実とも食用になる部分の収量は多くなり、農業にますます熱が入る。それは歌人が花をほめ、月を眺め、名所旧跡を見回り、武士が弓矢をたずさえて上手にかけひきして いくさをする心境と同じである。」(日本農業全書10清良記(親民鑑月集)農術鑑月紀・阿州北方農業全書、校注・執筆 松浦郁郎、三好正喜、徳永光俊、社団法人 農山漁村文化協会 昭和55年 より)

*男の労働力のみで必要な労力が見積もられた。年間のべで、丸一日の働きを1人分として換算。すなわち半日仕事で年間30日要するなら、30*0.5=15人分となる。女子供の労働力は別途必要。

「The Gardeners Labyrinth」では、庭(キッチンガーデン)は、下図のように、栽培ベッドで区切られ整然としていますが、清良記では挿絵がないので我が国のキッチンガーデンがどのような形状だったか、わかりません。


野菜探検隊世界を歩く(池部誠 文藝春秋 1995)には、以下のようなくだりがあるので、ヨーロッパのキッチンガーデンに比べれば、照葉樹林文化圏にある日本(清良記は伊予国)の戦国時代のキッチンガーデンは野菜ごとの区切りがあいまいだったのでは?と想像します。

「民族博物館の佐々木高明氏によれば、焼畑をする民族は、一つの作物の種子だけを播くのではなく、アワや陸稲にキュウリを入れたり、瓜を入れたり、マメを入れたりしてゴシャゴシャ播く習慣があるという。一つの畑にいろいろの作物を栽培するというのも照葉樹林文化の特徴だ。もともと、この樹林にはたくさんの食用になる植物が自生しているのだ。・・・この点で、西アジアに発しヨーロッパに行った麦農耕では、原産地では少しの植物が一面に自生していることを引継ぎ、畑に単一の作物しか作らない。これが大規模栽培に繋がり、スキが発達した。」

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